2018年9月27日木曜日

静かな暴力と共に雲海を進め



鎌倉でのコンサートも終わり、雨が続いている。
雨の日は独特な感覚になる。何かを「書きたい」という欲求が生まれ、ふとした切っ掛けもあったので書く。
今感じていることを、僕の経験を踏まえた上で綴っていきたい。そしてこの文章が誰かの役に立って欲しいと願うし、同じような境遇の人を心から応援したい。誰かにとっては極端に不快な文へ。
これから書くことは音楽的なことではない。






煙草が嫌いだ。

正確には’大っ’嫌いである。




昔からそうだった。あの匂い。今はもっとだ。たまに吐き気さえ催す。
僕は小学校の頃少年野球チームに所属していたのだが、その時の「コーチ」と呼ばれる大人達は
皆というわけではないが煙草を吸っていた。休憩中にモクモクと、練習が終わった後にもプカプカと。
正直「イヤな匂いだなァ、胸も少し苦しくなるよぉ」と少年期には声にならぬ思いを抱いていた。
だがどこかで「大人になると誰でも吸うものなんだろう、少しは我慢しなくちゃ」と自分に言い聞かせていた。


高校生になれば男子の何人かは喫煙をしはじめる。まぁ、16~18歳の時なんてどこもそんなものだ。
多少のアルコールは摂取(もう時効だろう)していたが、何人かの友達に「吸えば?」と薦められたことはあったがその誘いを受けたことは一度もない。
何かの集まりで隣で吸う彼等と仲が悪いということはなかったが、やはり「我慢しなきゃならない自分」は存在していて。
バイト先でもそうだ。先輩が吸っていれば、控え室でも18,19歳かそこらの少年は耐えなければならない。悲しい事実だ。


そしてあの白く細長い円柱の物体を完全に「嫌い」になったのは、僕の経験ではない。母親の勤め先の話からだ。
母親の(元)勤め先だった場所は喫煙スペースが設けられていなかったらしい。オフィスで作業をしていてもプカプカと宙を漂う靄に酷く咳き込み、辟易し、体調を悪くし病院に行った。非常に辛かったと思う。「煙が下に落ちて消えていけばいいのにね」という言葉は印象的で、なんだか雲海を思い出した。
吸っている者はとにかく、そうでないものにとってそれは「静かな暴力」だ。その話を聞いてから僕はその行為自体も一気に嫌いになった。そんなものは我慢なんてしなくて良い。


いわゆる「飲み会」や「懇親会」と呼ばれる空間での喫煙者の存在は僕のような人間にとっては今となっては本当に辛いのだ。
その人を嫌いな訳では決してない。付き合えないだけで。
僕は会社で勤めたことはないが、その中で行われる「懇親会」や「親睦会」でも同じような現象はきっとあるんじゃなかろうか。
今そこにいる、僕と同じ境遇の、君、あなた。
辛いよね。すっごくわかるよ。でも言えないんだよね。きっと辛いよね。


そして長くなるがこの思いを、自分の音楽活動の視点からも綴りたいと思う。少しずれるかもしれないが。。。




大学を卒業してから、様々な場所で演奏してきた。寺、病院、ホスピス、カフェ、古民家、サロン、ギャラリー。
その中でいわゆる「ライブハウス」での演奏も経験し、様々な共演者とも出会ってきた。
出演者と共に1つのステージを作っていこうとする良いハコ(本当に感謝です)もあれば、そうでない所もある。
そういう所は大概の場合ホスピタリティーが最悪で、演奏中でも目の前にいる客からガンガン煙草の煙を浴びたことがある。
スタッフは気にも留めないし、演奏が終わればいざ  じゃ機会があればまたよろしくそれでは   ってな感じ。



そしてその時に考えたのが「自分で演奏できる場所を作れば良いのでは」ということだった。
各地にある「素敵だなぁ、こんな所で音を出してみたい」と思えるようなお店や場所を、自分の足で探し、見つけ、アポイントメントをとる。
受け入れてもらえる場合もあるし、一蹴されて終わる場合もある。それは様々だ。
だがそこでひとたび演奏させてもらえるようになれば、お店側とのパートナーシップは強いものになり絆も生まれる。双方に良い効果をもたらすことができる。
大変な作業ではあるが、そこで感じたのはこうやって自分で演奏できる場所を見つけ、ステージを作っていくのは実に「楽しい」作業だった。
今でもそれは変わらないしこれからも継続していくと思う。
僕のようなギタリストは腰掛ける場所さえあれば演奏できる。それはとても幸せなことで、ギターを選んで良かったと思える瞬間でもある。






今回の記事、前半部を読んだ一部の方にはとても不快な思いをさせてしまうかもしれません。承知の上で書きました。心よりお詫びします。
でもそのような経験があったからこそ今のような演奏活動が出来ているのだと思いますし、考える切っ掛けになった出来事でした。
最後まで読んでくれた方に心から感謝します。


雨が

止んだ。